『栄冠と絶望のリンク ロシアの天才スケーター カミラ・ワリエワの宿命』(河西大樹、今野朋春、講談社、2025年)を読んだ。

この書籍の発売に先立って、2024年3月3日にNHK総合『NHKスペシャル ”絶望”と呼ばれた少女 ロシア・フィギュア ワリエワの告白』が放送、2024年6月13日にはNHK BS『ロシアのアスリートの宿命~女子フィギュア・ワリエワ』が放送された。本書は放送に載らなかった取材に成功するまでの過程なども含めて、NHK取材班がロシアに2回渡航して取材したカミラ・ワリエワ選手とエテリ・トゥトベリーゼコーチの独占インタビューの他に、カミラ・ワリエワ選手の禁止薬物違反の疑いが最初に報じられてから2024年1月にスポーツ仲裁裁判所がワリエワ選手に4年間の資格停止の裁定を出すまでの一連の経緯、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)のオリビエ・ニグリ事務総長、ロシアの女子フィギュアスケートのエリザベータ・トゥクタミシェワ選手、ウクライナの男子フィギュアスケートのイヴァン・シュムラトコ選手などへのインタビューも掲載されている。
本書を知ったのはスポーツ専門誌のNumber Webに掲載された、フィギュアスケート取材歴の長いノンフィクションライターの田村明子さんのコラムだった。
その他、ウェブメディアのJBpressには本書の著者であるNHK報道局ディレクターの河西大樹さんとNHK札幌放送局記者の今野朋春さんのインタビューが掲載されている。
書籍の発売よりも前に放送された番組はリアルタイムで見ていた。視聴していた時の記録は以下の通り。
当時の放送内容の中で今も覚えているのは、「あなたは十分休んだ!もう一回やり直そう。急いで!さもないと、メダルは全部ほかの子にいってしまう」(p.87)とあるように、カミラ・ワリエワ選手以外の選手にも厳しい言葉を飛ばすエテリ・トゥトベリーゼコーチの厳しい指導である。「メダルは他の子に取られるぞ」と檄を飛ばす場面が印象に残っている。
しかし、本書を読むと、エテリ・トゥトベリーゼコーチの指導はただ厳しいというわけではなく、エテリコーチが確固たる指導方針や考え方を持っていてそれが厳しい指導に繋がっているのだと感じた。選手の体重が500g増えているとすぐ分かるというエテリコーチの目と徹底した体重管理、親が練習に立ち会う事を歓迎する姿勢と「親の関与」による選手の精神面の自立促進を重視している点、フィギュアスケートの得点の分析から成る演技構成の戦略などである。指導者としてエテリ・トゥトベリーゼコーチがフィギュアスケートの女子シングル種目で一時代を築いたのは伊達ではないと思った。
また、エテリコーチの生い立ちから始まり、4歳半でフィギュアスケートと出会い、シングルの選手としての挫折とアイスダンスへの転向、アメリカでのアイスショー出演で身を立てる決意、思わぬ転機となった1995年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件、アメリカからロシアに戻った直後の指導者としての活動なども書かれている。アメリカへ渡航してYMCAの宿泊施設に辿り着くまでの様子を読むと、エテリコーチは苦労人であったとも見受けられる。
フィギュアスケート選手の練習というと、氷上での滑走シーンを主に思い浮かべる。しかし本書には、エテリ・トゥトベリーゼコーチが指導するフルスタリヌィ・スケートリンクでは、氷上の練習だけではなく、専属コーチの指導によるクラシックバレエやモダンダンスのレッスンも行っている事が書かれている。バレエのコーチによれば「フィギュアスケート選手も同じバレリーナであり、氷上で演技するだけである。柔軟性や調整能力、音楽性を高め、技術面と構成が調和し、要素を実施する人間ではなく、人物を演じきるフィギュアスケート選手になれる。」と取材に答えている(p.74-p.75)。自分はフィギュアスケート競技の中継をたまに見る程度で、フィギュアスケートに造詣が深いわけではないが、フィギュアスケート選手が氷上のバレリーナであるというのは説得力のある説明だと感じた。
本書によると、カミラ・ワリエワ選手は2023年の取材当時、2年間で身長が8cm伸びたと明かし、身長が165cm程になったようで、ワリエワ選手自身は身長が伸びた事で体重が増加し、それに伴う筋力トレーニングに励んだり、高いジャンプを跳ぶために有酸素トレーニングが必要であると明かしている。また、2022年が1番きつく、身長が伸びて体重も増加した事で、前のシーズンではできていたテクニックが役に立たなくなった事で以前のような取り組み方は危険である事から、最終的には量より質が重要だと分かり、適当なジャンプを15本跳ぶより質の高いジャンプを2本跳ぶ方が精神的にも肉体的にも大切であるとも語っている。そして、練習の場面ではこれまでと違うアプローチで4回転ジャンプに何度も挑んで転倒を繰り返すも4回転ジャンプを諦めていない様子も書かれている(p.95-p.96)。
カミラ・ワリエワ選手の場合は成長に伴う身長と体重の変化によって以前のように取り組めなくなったという事だが、女子ラグビーの青木蘭さんや女子レスリングの金城梨紗子さんは出産を経て元の身体を取り戻す、あるいは元のやり方を取り戻すような方向ではなく、今の身体(体型変化後の身体)で新しくゼロから構築し直す事を語っていたのを思い出した。身体の成長による体型変化と、出産による体型変化は、それぞれ違う物であると自分は認識しているが、元のやり方を取り戻すのではなく、新しくゼロから構築し直すというのが標準的なのだなとも思った。高校野球を描く漫画『BUNGO-unreal-』(二宮裕次)の第1話でも身長が半年で10cm伸びたが投手として球速が戻らない主人公の石浜文吾に対して野田幸雄が投球フォームと感覚をゼロから見つけるしかないと語る場面がある。
本書におけるロシアによるウクライナ侵攻後のロシアとウクライナの関係性について特徴的な所は、ロシアのエリザベータ・トゥクタミシェワ選手の「なんとかしてまた国際大会に出場したい」という思いと、ウクライナの男子フィギュアスケートのイヴァン・シュムラトコ選手の「戦争を仕掛けた側の国の人達を見るだけで非現実的に感じる」という思いの距離感であろう(p.183、p.186)。これがいつ埋まるのか想像は付かない。
本書は前述のテレビ放送と関連があるが、放送を見ていなくて本書で初めて触れるという人にも読める内容になっている。
カミラ・ワリエワ選手の薬物使用疑惑を最初に報じたinside the gamesのダンカン・マッケイ記者のインタビューで、ロシアの組織ぐるみのドーピング疑惑について、2010年のバンクーバーオリンピックのメダル獲得数が金メダル3個・メダル総数15個という低迷ぶりに終わった事から端に発する旨が語られている(p.166)。2014年のソチオリンピックの10ヶ月後にロシアの組織ぐるみのドーピング疑惑が取り沙汰され始めた頃から、モスクワのWADA認定研究所の所長だったグレゴリー・ロドチェンコフさんの亡命と証拠を提示した上での組織ぐるみのドーピングの告発、ロシアの選手が「ロシアから参加するオリンピックアスリート(OAR)」として2018年の平昌オリンピックに参加するまでの経緯についても記されていて、ロシアを巡るドーピング問題の端緒について知る事ができる。
本書の中で、カミラ・ワリエワ選手の薬物使用疑惑について特徴的な所は、「若い女性スケーターは非常に管理された環境の中にいてコーチや医師、栄養士に言われた通りに行動していて、2022年の北京冬季オリンピック当時まだ15歳のカミラ・ワリエワ選手が自分の意志で動いたとは考えづらく、恐らくシステムの犠牲者だった点で多くの人が彼女に同情している」(p.176)というinside the gamesのダンカン・マッケイ記者のコメントと、「15歳の少女であるカミラ・ワリエワ選手が単独でドーピング違反を犯したわけではない事は明らかであり、トリメタジジンをワリエワ選手に提供した可能性がある取り巻きに非常に大きな責任がある」(p.208)、「ワリエワ選手の周りにいる取り巻きの人達は実際に何が起きたのかを明らかにするよりもでっち上げの話を考え出して、ワリエワ選手を守るのではなくその周りにいて罪を犯した人々を守ってワリエワ選手を犠牲にしようとした」(p.210)というWADAのオリビエ・ニグリ事務総長のコメントである。薬物使用疑惑でカミラ・ワリエワ選手個人に焦点が当たるが、ワリエワ選手1人の問題ではなくその周囲にも問題があるという事を浮き彫りにしていると捉えられる。
2022年の北京冬季オリンピックでのフィギュアスケート団体の女子ショートプログラム・女子フリープログラム、フィギュアスケート女子シングルのショートプログラムとフリープログラムにおけるカミラ・ワリエワ選手の演技は以下の公式動画で確認する事ができる。
【2022年北京冬季オリンピック・フィギュアスケート団体の女子ショートプログラムの公式動画】
Figure Skating - Team Event - Women's Short Program | Full Replay | #Beijing2022
【2022年北京冬季オリンピック・フィギュアスケート団体の女子フリープログラムの公式動画】
Figure Skating - Team Event - Women's Free Skate | Full Replay | #Beijing2022
【2022年北京冬季オリンピック・フィギュアスケート女子シングルのショートプログラムの公式動画】
Figure Skating - Women's Short Program | Full Replay | #Beijing2022
【2022年北京冬季オリンピック・フィギュアスケート女子シングルのフリープログラムの公式動画】
Figure Skating - Women's Free Skating | Full Replay | #Beijing2022
本書の最後には、河西大樹さんと今野朋春さんのそれぞれの後書きが載っている。特に河西大樹さんの後書きでは、NHKにおける大型番組の制作過程の一端と本書の原点になる大きな取材動機が書かれている。後書きも合わせて読むと良い。
取材動機として、「今の時期にロシアで撮影する事は怖くないのか」と問われても、恐怖よりも「知りたい」「伝えたい」という思いが勝っていて、2022年の北京冬季オリンピックが終わってロシアの選手達が国際大会から排除された後もフィギュアスケートの取材を行う中で「ロシア」に関する話題は選手も関係者も、競技連盟もタブー視するかの如く決して「ロシア」に触れようとせず、ドーピング事件についても「ロシア」にだけは誰も触れようとしないという一種の気持ち悪さから「誰もやらないなら、できないなら、自分達がやるべきだ」とジャーナリスト精神に火が点いたと書かれている事が特徴的に感じた。
スポーツ仲裁裁判所が下したカミラ・ワリエワ選手の資格停止処分の期間は2025年12月25日までとなっている。
その他には、スポーツライターの赤坂英一さんが赤坂さん自身のブログで本書を取り上げている。
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